sinhaオーナー 石井雅士さん 広美さん
国や地域、人それぞれの嗜好に合わせて
自由に楽しめる紅茶文化に魅せられて
紅茶に出会った日、石井雅士さんの人生は劇的な転換へと舵を切った。国家公務員として真面目に働き、職場で広美さんと出会い、傍目にはいたって順調な人生だったかもしれない。けれど、20代半ばまで趣味と呼べるものもなく、家と職場を往復するだけの毎日はどこか辛かった。そんなある日、「紅茶セミナー」の告知を見かけ、広美さんと一緒に有給休暇をとって出かけてみる。ほんの気まぐれだったのに、セミナー講師だった磯淵猛さんに出会ったことで、石井さんの人生は大きく動き出す。
「先生が煎れてくださった紅茶は、どれもすごくおいしかったんです。『紅茶にルールはない。自分の生活に合った飲み方で長く楽しめばいい』という先生の言葉は、20年以上たった今でも鮮明に覚えています」
セミナー終了後はその足で磯淵さんの店を訪れ、そこから一気に紅茶にのめり込んでいく。そして2年後、広美さんと結婚した際、新婚旅行として初めてスリランカを訪れる。その頃には、漠然とだが二人で紅茶の店を開くことを決めていたという。
「特別なことは何も考えていません。何気なくいらしたお客さまに、私たちが好きなセイロンティーを飲んでいただきたい。それがオープン当初から変わらない思いです」
【profile】
横浜市出身。郵政省勤務時代、同僚だった広美さんと一緒に磯淵猛さんの紅茶セミナーに参加したことがきっかけで、セイロン紅茶の世界に魅せられる。
2003年、関内に「錫蘭紅茶本舗 sinha」をオープン。ビルの老朽化に伴い、2011年7月、馬車道へ移転。
公務員時代には有給休暇を利用してトータル20回以上スリランカに通い、最長2週間滞在したことも。そうして築いた信頼関係を元に、紅茶や食材はスリランカからダイレクトに輸入している。
ヌワラエリヤ(右)とディンブラ(左)。スリランカでは年間を通じて紅茶が生産されているが、同じ地域のお茶でも、標高や作り方がほんの少し違うだけで色も味も香りも変わってくる。
2階はテラス席のように気持ち良い空間。スリランカの茶器や雑貨など雅士さんのコレクションがいたるところに飾られている。
店内では、紅茶はもちろん手作りのスコーンやケーキなども販売している。
日本人に馴染みやすいスタイルで提供されるカレーも人気。スリランカのカレーは、インドと比べるとサラッとしているのが特徴といわれる。数種類のカレーやおかずをお皿の上で混ぜて食べるのが定番だとか。
《石井雅士さんインタビュー》
若い頃から紅茶好きだったのですか
いえ、「趣味」と呼べるものはまったくなかったですね。生まれも育ちも横浜ですが、公務員として勤めていた職場は東京。毎朝多摩川を渡るたびに身構えてしまうし、仕事が終わったらすぐに家に帰ってくる生活でした。これではいけない、と思ってカップを買ってみたものの、コーヒーにも紅茶にも興味がないから、入れるものが思い浮かばない。つまらない人生でしたね。
セイロンティーに出会ったのは偶然?
そうです。有給休暇が余っていたので、平日に開催される「紅茶セミナー」に行ってみたものの、まさかその後にこんな人生が待っているとは思いもよりませんでした(笑)。セミナー講師だった磯淵猛さんと出会い、彼を通じて紅茶を知り、お店を持つまでになったのですから、本当に幸せな巡り合わせだったと思っています。
紅茶はお酒と違ってたくさん飲んでも酔わないし、僕が好きになったセイロンティーは価格も手頃。実際、日本で口にする紅茶の4杯に3杯はセイロンティーだといわれるほど身近な存在なので、それが良かったのかもしれません。
セイロンティーの魅力とは何だと思いますか
原産地であるスリランカは、日本の北海道より小さな島です。その中で紅茶を作っているのは主に南半分の地域ですが、そんな限られた地域の中でも、標高が違ったり、ほんの少し作り方が違うだけで、色も味も大きく変わります。色が淡くあっさりしたお茶には日本のお饅頭などが合い、色も味も濃いお茶にはクリームをたっぷり使ったケーキなどが合う。
飲み方にしても、ヨーロッパ人が茶葉をティーポットで煎れるのに対して、スリランカの人々は粉茶を茶漉しで煎れるのが好き。ミルクや砂糖はもちろん、ゆず果汁や豆乳を使ったアレンジティーを楽しむ人々もいる。国や地域ごとに文化があり、人それぞれの楽しみ方があって、それが紅茶の面白さだと思っています。
スリランカにはずいぶん通われたそうですね
結婚してからも4年間は公務員を続けていたので、多いときは年に3回、長いときは2週間ほど滞在しました。スリランカの旧称は「セイロン」、その前は「セレンディップ」と呼ばれていた時代があるのですが、それは「麗しの国」あるいは「予期せぬ幸運」という意味を持つ言葉だそうです。私にとってはまさにその通りで、滞在する間に思いがけない喜び、幸せに出会える島でした。
政治的にも大変な時期がありましたし、嫌な思いをしたこともありますが、僕らにとってはそれを補って余りあるほど素敵な島です。
店を始めてからは気軽に行けなくなってしまったので、それだけは残念です。
オープンから15年が過ぎましたが、次にやってみたいことがあれば聞かせてください
セイロンティーは生産も輸出入環境も安定していて、物価の優等生の一つと言われています。だから僕らも、ごく普通に楽しめるお茶として提供していけたらいいな、と思っています。頑張ってお店を大きくするとか、スリランカ文化を広めたいとか、大それたことは考えていません。何気なくお店を訪れたお客様に僕らが好きな紅茶をお出しして、ごく普通に楽しんでいただきたい。それが、オープンから15年経った今も変わらない思いです。