mirea 街を彩る ヒト・モノ・コトをつなぐ[ミレア]

「かわいく作りたいと思ったことはないんです」。

陶芸家
大槻 智子さん

淡いパステルカラー、小鳥やうさぎなどの動物モチーフ、水玉を思わせる細かな粒つぶ……陶芸家・大槻智子さんが「小さい頃から変わらず、ずっと好き」というものを形にした作品の数々は、見る人の心をふっと軽く優しくしてくれる。
陶芸の道に足を踏み入れたのは、短大を卒業し、金融機関のOLになってから。「アートで食べていけるのか」と悩んだこともあったというが、30歳を前に「やりたいことに飛び込もう」と決意。焼き物の一大産地・常滑へ移住して、今の作風を確立させていった。「パステルカラーがキレイに出たのは、実は偶然。染料って結構高価なので、少しずつ混ぜていったら、この色が出たんです」と明るく笑うが、さまざまな染料や土を使い、試行錯誤する日々があったことは想像に難くない。
5年前、常滑から生まれ育った横浜に戻り、作家活動の傍ら陶芸教室も主宰する大槻さん。今年の8月から10月にかけては、マレーシアで作品づくりをする計画もあるという。「海外で、その土地の土を使って焼くということは、これまでやってきたことが試されるようでドキドキしますが、やはり楽しみですね」。

《profile》
横浜出身。3歳の頃から絵画教室に通い、アートに親しむ。美術専攻の高校、短大へと進んだのち、「広い視野を持ってほしい」という両親の勧めもあり、金融機関のOLに。同時に週末は陶芸教室へ通い、基礎を着々と学んでいった。現在は横浜市内のアートシェアハウスにて作品づくりに励む。第7回益子陶芸展 審査委員特別賞に輝くなど受賞歴多数。

大槻智子さん

オブジェやランプシェードなど、作品は多岐にわたる

たまたま見つけたハンコにヒントを得たという型押しの技法

大槻さんが数々の作品を生み出す工房。作品づくりは、レースを型押ししたり、野菜やフルーツを丸ごと型取りしたりと自由そのもの。「これ好き!」と感じたものを取り入れていく

最後に、ひとつずつ手書きで署名を書き込んだら完成だ

大槻智子さんインタビュー
まずは陶芸を始めたきっかけを教えていただけますでしょうか。
「もともと3歳の頃から姉について絵画教室に通っていまして、高校も美術系の学校でした。平面のデザインより立体の方が好きでしたので、短大ではインテリアデザインを学びましたが、建築は自分には規模が大きすぎると思ったんです。私は、椅子とかテーブルとか自分の手で作るものが好きだなと。そこで何をやろうかと探していた時に、高校時代の先生から「陶芸をやってみたら」と勧められました」

それで陶芸教室に通い始めたと。
「はい。高校時代、粘土を使った彫刻の授業がすごく楽しかったこともあり、これはいいぞと。ただ高校生の時はアートが職業として成り立つのかとすごく悩んでいまして、職業としてやっていけそうなのはインテリアかなと思ったわけです」

短大卒業後はインテリアのお仕事をしながら陶芸教室に通っていらしたんですか?
「いえ、就職は『美術以外の社会も知ってほしい』という両親のアドバイスもあり、信用金庫に決めました。陶芸教室へは会社が休みの土日に通っていました。信用金庫へは4年半勤めましたが、陶芸がどんどん面白くなってきて、私はいろいろなことが同時にできない性格なものですから、陶芸をやるならそれに集中したいなと。30歳までに自分が『やりたい』と思うことをやろうと、会社を辞めたんです」

「アートで食べていけるか」という悩みは、その時には解決されていましたか?
「そこは、『できる人はできるし、できない人はできない』と割り切って、まずはチャレンジしようと。それにね、初めて陶芸をやった時すごく悔しかったんです(笑)。一日体験教室へ行った時、自分は3歳から美術をやっているし、高校も短大も美術系だし、陶芸も当然すぐできるだろうと。ところが、できあがった作品が自分の思っていたものとは全く違って、変だったんです(笑)。こんなはずじゃないと(笑)。
会社を辞めた後は、その教室へ毎日行くようになりました。一年間毎日通うことができたら、自分は陶芸を一生続けていけるだろうと思ったんですね。幸い、先生も理解のある方で受け入れてくださって、陶芸の基礎からしっかり教えてくださいました。土を生成する、形を作る、削ったりして整える、焼く……と、さまざまな工程があるのですが、そのどれもが劣っていてはいけないんだなと学びました。
その後、教室のスタッフになりましたが、まだまだ自分の作品と呼べるものがなかったので、18時に教室が終わった後、毎日終電ギリギリまで教室を使わせてもらって作品づくりに没頭していました」

「自分の作品」というものを意識した時、現在の作風はすでに思い描いていたのですか?
「いないですね。かわいいものを作りたいとは思ってなくて、好きなものを形にしてきた感じです。作ってみて、例えばここにレース模様があったらよかったなとか少しずつ試しながら作ってきました。色もね、原料が高いんですよ。青は比較的求めやすいけれど、赤や金銀は高いとか。それで少しずつ使ってみたところ、たまたまパステルカラーになったんです。『おっ、これかわいい!私の好きな色だ!』と(笑)。土も赤土だったり磁器土だったり、いろいろ試しました。私は、どの土にも素敵なところがあると思うんですね。大切なのは、その土を使って自分ならどう作るかということ。私は、色がきれいに出て、ハンコを押した時に細かいエッジがクリアに出る白い磁器土でやってみようと決めたんです」

そうして少しずつ大槻さんらしさが確立されて行ったんですね。陶芸家と名乗ってやっていこうと思われたのは、いつ頃でしょうか。
「自分が作ったものが他の人からどう評価されるだろうと考えた時に、『作家』ということを意識しました。どういう人が『作家』と呼ばれるのか、全くわからなかったので、4年半陶芸教室でお世話になったあと常滑に行ったんです」

それは作家としてのノウハウを学ぶためですか?
「ノウハウというより、産地を知ろうと。いろいろな産地を周っても、数時間や数日の滞在では良いところしか見えないですよね。そうではなくて、生活することでわかることがあると思ったんですね。それから、目標としていた30歳になる少し前でしたので、自分はもっとずっと陶芸を続けていけるのか、見極めたいと。それまでは展覧会や個展などもしたことがなかったですし、私は遅いスタートで経験値も少ないので焦っていた時もありましたけれど、それが自分のペースだから、自分らしくやっていこうと決めたんです」

常滑で得られたのはどんなことですか。
「周りは焼き物をやっている方ばかりで、世界で活躍している人もいれば地元に密着している人もいます。それぞれが活躍なさっていて、すごいな!かっこいいな!と思いました。自分の作品を見てもらったり使ってもらったりすると、作品が人との交流ツールになりますよね。それってすごくいいなと感じました」

常滑には何年いらしたんですか?
「2年半です。ずっと常滑で活動していくつもりだったんですが、横浜の実家に帰った時、たまたま今入居している工房付きシェアハウスを見学させてもらいまして……。いいなと思ったんですが、常滑で陶芸作家さんのアシスタントの仕事をしていましたので、辞めて横浜に帰るわけにはいかないなと。でもその方が「あなたはもう自分で作家活動をしていったほうがいい。アシスタントではなく、自分でやっていけるから」と言ってくださって、次のステップに踏み出そうと決心できたんです」

横浜に戻られてから今年で5年だそうですが、今後新たな挑戦として計画されていることなどはありますか?
「今年、初めて海外で展覧会をする予定があるんです。今年8月から10月にかけてマレーシアに行ってきます。その土地の土を使って、その土地に行って制作をするので、自分が今までやってきたことが全面的に出るだろうなと楽しみにしています。自分らしさと新しさの融合でどんなものができるかなと。ただ、ちょうど台風の時期なので、無事に行けるか心配もあって(笑)。無事に飛行機が飛んで、マレーシアへ行けるように祈っています(笑)」

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